モリ山政和ヒストリー
100日写真です。まだ首がすわっていません。よく見ると後ろからこっそり母親が支えているのが分かります。
よく泣く、大きな病気もしない元気な子でした。初孫だったので、祖父母からとても大事にされました。
写真は、同い年のいとこと一緒の入学式。いとこはとても腕っぷしが強く、私はいつも懲らしめられていましたが、物心つくころには大の仲良しに。お家にしょっちゅう遊びに行っていました。
音楽の先生に誘われて、男子三人で合唱クラブに入りました。
県の合唱大会(現在のNHK合唱コンクール)に何回か出場したことを覚えています。
相撲が強かったです。ちびっ子なのに、どんな大きい子相手でも物怖じしませんでした。相撲の戦い方は相手の力を利用していなす、頭脳派でした。将来の夢は相撲取り。でも身長が足りず断念しました。
このころからとにかく声が大きく、ついたあだ名は「森山スピーカー」。
中学校では吹奏楽部に所属しました。担当はトランペットです。ルイ・アームストロングに憧れていました。
体育祭では演奏を担当しました。フォークダンスを踊りたかったのですが…。当時の中学生はとても純粋で、女の子と手を繋ぐのが照れくさくて、みんな棒切れの両端を持ってフォークダンスを踊っていました。
写真は、吹奏楽部の仲間5人と2泊3日の自転車旅行に行った時のものです。この仲間たちとは今でも付き合いが続いています。学区外では制服制帽の着用が義務付けられていたので、制服制帽で走りました。1泊目は名護、2泊目は嘉陽の海岸でキャンプ。実家が養鶏場を営んでいたので、鶏肉を持って行きました。
国語の先生に恋をしました。あれが初恋だったのでしょうか…。
高校も吹奏楽部に所属。引き続きトランペットに情熱を燃やしました。
顧問の先生にとても刺激を受けました。恩師です。
今では考えられないことですが、先生のアパートに泊まりに行ったり、ドライブに連れて行ってもらったり、とにかく色んなところに行って、色んなことを話しました。
この先生がいなければ音楽を続けていなかったかもしれません。
私は自分に音楽の才能がないと思っていました。そんな私に先生は、諦めないこと、粘ることの大事さを教えてくれました。
大学受験の壁は高かった…。どうしても行きたかった音楽大学。東京で浪人することに。復帰前ですから、パスポートを持っての上京です。那覇港から晴海埠頭まで、確か2泊3日の船旅。もちろん雑魚寝の二等船室。食事は、配膳係がトレイごと床をザーッと滑らせて投げてよこす。なかなかワイルドな旅でした。
東京に着くと下宿探し。毎日のように不動産屋さんに通って安下宿を探し回りました。ついに見つけた江古田の三畳一間、四千円。不動産屋さんの社長にえらく気に入られて可愛がってもらいました。
受験勉強は決して順風満帆ではありませんでした。
元々トランペットでの受験でしたが二浪しても駄目でした。大きな挫折を味わいました。三浪目、トランペットを諦め声楽での受験にチェンジ。ようやく音楽大学合格をつかみ取りました。
学費も生活費も全て自前、自活。
日本のフランスパン発祥の店といわれる明治創業の老舗パン屋で、住み込み社員として働きながらの学生生活が始まりました。
当時社員だった分の33ヶ月分の年金加入記録が今もしっかりと残っていて感慨深いです。
大学ではオペラ研究科に所属し、レッスンに明け暮れる日々。一方でパン屋の仕事もこなしながらという二足のわらじ。とにかく大変でした。
大学3年の時、レッスンの時に先生から「沖縄本土復帰だよ!」と教えてもらいましたが、当時、故郷を遠く離れ学業と仕事に追われる自分にはあまり実感が湧かず…。
当時の中学校は、とにかく荒れていた!
校内暴力、決闘、他学校との抗争…。卒業式は他学校との乱闘、殴り込み、そしてその報復で手が付けられない状況でした。
頭を悩ませた音楽の先生方が「本土で生徒指導に学級合唱を取り入れて成功した事例がある」ということを聞き付け、沖縄でもやってみようということになりました。
高江洲中学校在任当時、学級合唱の大会を県全体でやろうという話になり、私が事務局長を務めることになりました。
子どもたちも次第に合唱にはまり込み、なんだかいい感じに!
自主性を重んじ、曲目は生徒たちが話し合って決める、伴奏者も生徒たちが決める。コミュニケーションを取りながら、時には喧嘩をしながら少しずつ仕上がっていく。それが達成感に繋がったのでしょう。
写真は、余興に命をかけていた教員時代のひとコマ。演目は「とんまな泥棒」。たくさんの子どもたちと音楽教育を通じてふれあいました。
中央混声合唱団で活動していたとき、ピアノの先生の紹介で、オペラの部の伴奏者として現在の妻、邦子がやってきました。2年くらいお付き合いして、結婚しました。
【スタッフ加筆:妻・邦子さんによると…】「会った瞬間に、『もしかすると、私はこの人と結婚するかもしれない!』と思いました。でも、あの人は全くそんなことは思っていなかったみたいです(笑)。「別に僕はそうは思ってなかったよ」って。本当ですかね。
着任当時、創立10年を数える比較的新しい中学校でした。
校内の整備も充分とはいえず、校長と一緒になって、校庭の整備や植樹、整理に明け暮れた日々。
校庭に日陰がなかったので、ガジュマルを植えようという話になりました。
地域の方々に「あそこにいいガジュマルがあるよ」と聞くと重機を出してもらって掘り起こして校庭に植える。
作業が終わったらヤギを潰してヤギパーティ。僕のあだ名は「ヤギ教頭」でした。
創立当初からの書籍や毎年発行する要覧といった書類が物凄い量で残っていたので、ひたすら整理していました。
初マラソンで初完走を達成。
以後、フルマラソン41回完走。現在もトレーニングがてら、週に3~4回の10km早朝ジョギングを欠かしません。
継続することで、移りゆく街の風景や小さな変化に敏感になります。走るとアイディアが湧くね〜。政策にも様々なインスピレーションを与えてくれます。
【スタッフ加筆:妻・邦子さんによると…】うちの人はとにかく、途中で何かをやめるということがない人。仕事でもマラソンでも、一度始めたものは絶対に最後までやりきる人。そして、一度何かを始めるとルーティーンの中に入ってしまって、それをずーーーっとやり続ける。私が体調が悪くて食器洗いを二、三日代わりにやってもらうと、その後もそれが習慣化して、私から何を言わなくてもずーーーっとやり続ける。そんな人です。逆に、私は同じことをやり続けるのが割と苦手で、あれやこれやと目移りしてしまう人。性格が真逆なのがいいのかもしれませんね。
初めての校長。
当時は「ゆとり教育」のさきがけで、週休二日制が導入されたり、評価方法が相対評価から絶対評価へと変わったりといった時期。
評価方法の研究を学校を挙げて職員総出でやっていて、とにかくあれくらい学校で研究をしたというのは初めてのことでした。
文科省は、非常に細かい評価をするようにという通達を出してきました。
たとえば「4観点評価」。この評価は先生方にかなり負担がかかってしまう。
評価をして、生徒にも親にも報告しないといけない。
そのためにもまずは通知表を変えないと、ということになったものの、観点別に通知表を作るとなると各教科で1枚。合計で10枚にもなります。
これを年に3回出すのは教職員にとってあまりに酷だということで、2学期制を導入。のちに、沖縄市全体が2学期制を導入することになりました。
安慶田中学校でも、3年かけて評価方法を指導しました。
教職員の指導に追われる日々。本音で言えば、子どもたち個人個人と過ごす時間をもっと取りたかったのですが…。
このころには既に私は改革派の校長として名をとどろかせていたのでしょうか、着任するなり先生方がかなり身構えているのを感じました。
当時、先生方はとても熱心で夜の9時10時まで残るとかはザラ。当然私も残らないといけない。全体がそういう風潮でした。
前任の安慶田中で道半ばであった午前中授業の導入(一日あたりの授業時間を減らして、その代わりに長期休暇を削り授業日数を増やす)について様々な研究を重ねましたが、定年まで2年という時間制限の中での実現は難しかった…。
・保護者の皆さんは夏休みをもっと短くしてほしいと要望
・先生方も、午前中授業の日は昼からたっぷり時間を取って子どもたちの評価をできるし、授業についてこれない子どもたちのフォローもできる
ということで八方良しなのですが、まだまだやり残したことがある中での定年でした。
自治会活動で草刈りを始める。「草を見ると無性に刈りたくなるさぁ」。学校の草刈りにも手を伸ばし始める。
現在の主な活動
・沖縄県音楽教育研究会 顧問
・宮良長包音楽賞(琉球新報社)選考委員
・混声合唱団「フォレスト」 主宰
・沖縄市ジュニア合唱団 主宰
・沖縄市ジュニアオーケストラ事務局長
・中部在住惣慶郷友会 会長
議会活動
・議会運営委員会委員
・沖縄市一般会計決算特別委員会(2015年度)委員長
・沖縄市一般会計予算特別委員会(2014・2016年度)副委員長